猫さんロードと裏猫日記

猫を通じて生き方を学んだり

執着駅を後にして

今日も天候不順

歩かない事を前提に一日が始まります。

 

猫さんの生活を日々見て居ると喜怒哀楽はあれどそれに執着する事は無いようです。

人と比べて短い猫生はそんな感情に執着する暇など無いのかも知れないですね。

僕もまだまだ凡人なので中々物事への執着から脱し切れてはいません。

猫さんは家族が居なくなったりしても僕らのような感情は持ち合わせて居ないのか

持ち合わせていても喉元過ぎれば熱さを忘れるがの如くいつもと同じです。

それは修行を積み悟りきった人の如くなので素晴らしい事かもしれませんね。

本能的な喜怒哀楽はそんなものかも知れません。

僕らは欲張り過ぎて喜怒哀楽まで溢れ余る程、宝物のようにため込んで

いるのかな?

猫さんは我が子が亡くなってもその事実を引きずっているようには見えません。

生きる本能が勝っていて人にあるような哀しみは一瞬で終わるのでしょう。

でもそれが生物としては大切なんだと教えられる気もしますね。

 

僕も若い頃は色々な事柄に執着して生きていたように思います。

母が亡くなった時、大いに心を痛め、父が亡くなった時も

大いに心を痛めたものです。

しかしそれに引きずられてしまう事はなかったように思います。

身近な死と言うものに直面するのは衝撃は大きいのですが

その哀しみが過ぎた頃に死に対しての感情が変化しました。

死ではなく姿が消えただけ

そう思えるようになるのは半年くらいはかかるので半年は引きずって居た

事になります。

恐らく猫さん達はその一瞬の哀しみの後には死ではなく

我が子が消えた程度の感情かも知れないですね。

 

人も生きる本能が優先した時にはそんな感情ではないでしょうか?

戦闘の最前線ではそうであったと思います。

 

僕は感情がやはり欲張りで人よりは喜怒哀楽が豊富ですが

それを表に出すのは下手です。

そんな事からポーカーフェイスだと言われたり

何を考えているのかわからないだとか

家庭の匂いが無いから独身では無いかとかそんな風に見られていました。

口下手で人付き合いも無く覚めた表情なので話しにくく近寄りがたい

存在だったようですが仲良くなった人からの印象は

見た目と真逆だと大体口を揃えて言われました。

 

そうそうタイトルは執着でした。

これを死ぬまでにどれくらい取り払えるかも残りの人生の生き方となります。

二年前に引っ越しの時に長年頭にあった父母の遺影ですね

僕は常日頃から墓石はただの石、仏壇はただの木

そう唱えていました。

その観点からだと遺影も同様でただの紙と木でしかないんですね。

色んな執着心がそれを上回り祀っているだけなので

僕の代で処分しておきたいといつも頭にありました。

葬儀屋や寺ではしきたりに従いやってくれますが

僕の信念はただの紙と木をわざわざそんな形にしてしまったら

執着のままの終焉になってしまうので。

普通ゴミとして処分しました。

この行為はかなり勇気が必要でした。

写真はハサミを入れ、木枠は分解して写真と共に可燃ごみ

バチ当たりな事だと言われても構いません。

寺の坊主よりは父母を尊敬し葬儀屋よりは父母を良く知っています。

もちろんあなたよりは心の底から父母を大切に思う心があります。

そうでなきゃしきたり通りにして誰からも咎められないよう

保身することでしょう。

父母の遺影は処分していましたが愛猫のミルさんの遺影と骨壺は

仏壇の所に今もあります。

こちらは僕がわざわざ何かしなくても良いでしょう。

 

昨日医者に行って来ましたが指の酸素飽和度は92%でした。

90%を切ると酸素ボンベと言われましたが

死ぬ時は酸素持って居ても苦しいのだからその時が来たら

考えますが今は酸素無しで寿命が縮まってもいいかなとも

思いますと言ったら先生が笑っていました。

 

猫さんや虫の如く何事にも執着しない人生

喜怒哀楽も一瞬一瞬で楽しみたいものです。