昭和44年3月 日本国有鉄道中国支社勤務 列車清掃整備構内作業
高校卒業後初めての就職先は国鉄でした。現在のJRですね。
ここで差別待遇を受け続けることになり挙句の果ては退職でした。
差別待遇と言うのは昔ながらの上下関係が厳しく、しかも臨時職員として
正規の配属場所が決まるまで1ヵ月程度は機関区の事務所勤めでした。
何をするのかと思っていたら事務所類の判を付くだけの味気ない仕事でした。
せっせと判押しを一時間程度でやり終えて渡すとこう言われました。
「お前その仕事は午前中の仕事のつもりで渡したんだぞ、そんなに早く済ませたら
他の者が仕事していない様に見えるじゃないか何やってるんだ!」
そしてまた書類の判押しです。終業までに済ませばいいと言いそいつは
出かけました。戻って来ると酒臭いでは無いか、また別の日にはちょっと
出かけて来るからこいつに判を押しといてくれとまた書類の束を渡して来るんですね。
そいつが戻って来ると頭さっぱりして理髪していました。
国鉄ってこんなに楽して仕事してるんだと思いましたね。
そして1ヵ月後配属が決まり車両の点検や整備をするところでした。
そこには新入生がやはり居て準職員として12名くらい居ましたね。
臨時職員は僕一人でした。
みんな新しい整備服を貰っていましたが僕には無いのです。
臨時は先輩のお古でも貰えってなもんでヨレヨレの整備服
これはちょっとおかしいぞと思い1ヶ月居た事務に行き話のわかる
先輩に聞いて見ました。すると臨時職員でもちゃんと支給するのが当然だと
新しい整備服を頂きました。
差別待遇が酷くなったのは毛髪の事で自分を通したからです。
高校は坊主だったので当時ビートルズに憧れていたのでロングヘア―にしようと思い
延ばし始めて少し髪の毛が耳にかぶさったのを見て先輩が「お前髪が長いから
切ってこい」と言われたんですね。
先輩の中にビートルズの様にロングヘアーが居たので名指しで「○○さんが切れば
僕も切ります、僕よりずっと長い先輩がいるのに切る筋合いはありません」
それが火を付けたのでしょうね、それからは丁寧に仕事すれば「仕事が遅い」
早く済ませれば「雑だやり直せ」の繰り返しでした。
そして夏のキャンプで夜の海で泳いでいたら飛び込み台のある台船の上で
先輩の声が聞こえました僕の名を出し「みんなあいつは生意気だから相手にするなよ」
ああそうかい、そう言う事かいと辞める決心はそこでつきました。
夜のキャンプファイヤーで苦手な酒を呑み、オヤジと呼んでいたその職場の
トップの名を叫びながら先輩達に悪態つきながらオヤジどこ行ったと
動き回っている内に空が回り始めました立っていられなくなりそのまま意識が
無くなりました。
目が覚めるとうつぶせでゲロの上に寝ている自分がそこにありました。
同僚が僕が何をするかわからない状態になってオヤジは船で帰ったと聞きました。
先輩達もあいつヤバイなと噂になったそうです。
間もなく辞表出して辞めました。
この職場でいい思い出は何もないでしたね。
みんな仕事はしない、一日の半分は遊んでいる。
赤字なんて当たり前でしょう。
午前は何故かオヤジの趣味なのか国語や社会など学校じゃあるまいに
授業なんて1時間くらいやったりしてね。
実際の仕事も1時間程度やったら後は自由時間みたいな感じだし
午後も長くても2時間程度やれば後は引き込み線で待機している電車の中で
漫画読んだりね、4時になれば風呂待ちみたいなもので風呂場近くで
5時になるのを待って寝ころんでね、それが旧JRなんだね。
つまり余剰人員が多すぎて実働は一日の半分もない時代でした。
先輩が威張り腐れるいい場所だったんだろうね。
逆らったら冷や飯食わされるだけ。
半年で辞めました。