今から10年近く前の事、子供たちと近所の公園で遊んで居た時に向こう側の
山の天辺にポツンと赤いものが見え、あんな山の上に何だろう?
それが何か気になり、一度行って何か確かめてみようと言うのが
愛宕神社との出会いでした。
僕は無宗教、無信仰なのでそれが神社だと分かっていたら登るはずもありません
ただの冒険心から行く道も分からずただ道を登って行けば行けるかも知れない
今考えればよくぞ辿り着けたものだと思います。
方向がかなりズレているなあと思いましたここからよりむしろ向こうに見える尾根側からの方かとも思いましたがこの辺りで既にしんどいなと思い向こうへ通じる道を引き返すなんて気力はありません。道が違っても山に登ればどこか切りのいい頂上には
辿り着けるだろうってなもんです。
運動もしたことのない還暦のおっさんです。
ただしんどくて何度も休憩しながら耳に伝わる心臓の鼓動でもう引き返そうかと
何度も立ち止まりましたがここまで来たのだからもう少しもう少し‥‥
最後の方はゼェゼェ言いながら10メートル歩いては立ち止まりでした。
本当に登るのは辛かった
たかだか標高300メートルあるかないかの場所でこんなに体力無いなんてね
スローモーションの動きで辿り着いて目に入ったのは
振り返れば僕は無宗教、無信仰
生まれて初めて初詣なるものに出向いた年に母を亡くした
無信仰の者が行く場所ではないなと思ったものでその後二度と初詣なるものとは
縁がないのだ。
僕の父母の記憶には初詣と蛍がある
初詣で母を亡くし蛍で父を亡くした思い出が深く刻まれている
蛍では何のことかわからないだろうが子供に初めて蛍を見せるために
連れて行きその時田舎でよく蛍狩りに行った事を思い出し父に蛍を
見せようと家に持ち帰ったのだ。
父は一言「おお、懐かしいのぉー」その年父は亡くなったのだ。
最近は猫さんロードを毎日歩いています
この場所からそれを眺めると
愛宕神社との出会いは冒険心からの出会いです
無信仰の僕の足を運ばせた奴こそこの神社であります
2011年から毎年足を運んで居ます還暦から今月古希を迎えますが
いつまで足を運べるかはわかりませんが信仰心抜きで
こいつと毎年会っています。
無信仰の無い僕を上手く導いた奴だから無宗教、無信仰のまま
来てくれた方が習わしだけで足を運ぶより良い絆が生まれる事でしょう。
体力のバロメーターとして利用してくれと言ってるようにも思えます。
来れなくなったら平地で心豊かに暮らせと言ってるようにも聞こえます。
僕にとっては神社ではなくこいつは友達のような存在になっています。
一年の内のどこかで会いに来る賽銭もせがまないし
手を合わせとも言わないいい奴です。
ご利益? そんなもんはいらん。