僕はいつもレールから少し外れて生きて来た、きっと今もそうだと思う、少し外れた
位置から物事を見つめているので、みんなとは違う価値観で物事が見える。それが良い事なのか良くない事なのかの答えはまだ解らない。
確かに見える物が違って見えるのだ。
レールに乗って行けない人の中には、犯罪を冒したり、不良と呼ばれたりもするだろう。しかしそれは裏を返せば、レールの中にすっぽりハマった人達の影だと言う事を
レールの中の人からは見えない、自分の影なのだ。
レールから外れる事によって見える物が存在するのだ。
例えば今の時期なら、花見シーズンで、多くの人たちが花見へと急ぐのだが
レールから外れる事によって、その花見と言う観念は消え去る
もっとレールから外れた人は、桜の一輪を見れば
木は愚か、沢山の桜並木すら見ているのだ。
心豊かになれば足を運ぶ事なく咲き乱れる桜を見ているのだ。
僕はまだ桜の木、1本を見て知るのだが、もっと心豊かなレベルの人は
桜の花びら1枚で、全てを見てしまうだろう。
人のどよめく場所で見える桜は見ていて見えていないのだ。
例えは難しいのだが、神と呼ばれる者は、その花びら一枚見ずとも
全てが見えるだろう。
仙人が下界を見る時の心は花一輪で全てを見通しているはず。
人は生まれた時からレールを走らせてしまい、そこから外れる事を良しと
していない、その良しとしていないすぐ近くの影があなたが生み出した
罪悪だと言う事を知らなければいけない。
多くの人は上を目指すのだけれど、それが何の為なのかは誰も知らない
レールの上で教えられた幻を追いかけているようなものだ。
そこにあるのは富か名声であり、心の貧困のゲージに過ぎない。
哲学めいてしまったが、心が求める本当の場所と
欲望が求める場所は明らかに違うのだ。
自殺やいじめ、パワハラ全て心の貧困が生み出した
我々の影だと言う事を忘れてはならない。
トップを目指すより最下位を目指すといい。