猫さんロードと裏猫日記

猫を通じて生き方を学んだり

文明社会がもたらした偏見 (野良猫など生き物)

今の時代は特に動物への偏見が顕著になっている、ペットがもてはやされれば

もてはやされるほど野良猫や害獣は迷惑な生き物と位置づけされてしまう。

毎年何万匹もの野良猫が正しい理由もなく殺処分され、その裏では何万匹もの

猫がペットとして売られている。

正しい目で見ればそれは変だと思えるはずだけど、偏見を持っていると

そうは見ないのだ。

猫を毛嫌いする人達や地域猫と呼ぶ人達も偏見を持っているはず

遠目には猫を保護するかのように見えても、差別しているに過ぎない。

人類は他の生き物と何万年も共存共栄して来たはず、それが出来なくなったのは

この近年だ。

動物愛護を尊び、保護された

 

猫等、殺処分から救っているようには見えるが、それも少し違う気がします。

他の多くの動物は自然に返すと言う言葉が使われるのに対し、犬や猫は

捨てると表現される事に注目するといい。

本来動物は自然界のバランスを保ちつように共存共栄出来ているのが

本来の姿、大自然の営みの中で動物の糞尿は必要不可欠なものであり

その大自然の大地をの構造を作り替え、文明によってもたらされた科学により

自然そのものを作り替えてしまったのが我々人間、作り替えた上で

邪魔なものを排除すると言う都合勝手な根拠でしかないだろう。

 

今日テレビで鹿が死んで、その胃袋からビニールの塊が出て来たと言う

ニュースが流れて来た、それも人間が作り替えた製品、

全国でも鹿が呼び物だったり、猿が呼び物の名所もある。

その光景も本来ならあり得ない光景、しかし観光になるならと

人前に出没出来るようにしたのは何故?

 

現実の大地では糞尿や食べ物など綺麗にしてくれるのは野生動物だったはずだし、

また糞尿は大地に返し、地を潤す産物ではなかったか?

もし自然のまま、食物を野外へ捨てたら色々な動物や鳥、果ては

地に生きるミミズなどやバクテリアまでがそれを処理する循環が

起きるはずだけど、その大地を覆い尽くし、人口の栄養素などで

自然とのバランスさえもう人類は忘れてしまったよう。

 

山に入れば、沢山の動植物が元気に活動している

そこにゴミと言われる物など何もなく、全て必要なものとして

自然は循環しているのだ、誰も入らない山奥も自然の循環そのもの、

我々は文明の光の当たる場所だけで色々な決め事をしているだけである。

 

野良猫と言う呼び名も文明の光の当たるところでの言葉

ペットも同じく、その光を正しく心に刻めば

地域猫などの言葉もなく自然の動物の猫と言う生き物である。

保護団体もいらないし、動物を売買もなく、共存出来れば

一緒に過ごす事も出来るのだ。

 

動物の売買が無ければ、自然に保護団体なるものも必要なくなるし

動物は特定の範囲に溢れるほど生息できるように自然は出来ていない。