住んでいたのは小学校4年になった5月まででした。
その年医者から父は今年の夏を越えるかどうかわからないと言われ
父と相談の上母が自分の里である広島へ引っ越そうと言う流れでした。
父は胃を患っていて何度も吐血したり下血したりで
色々治療を施しても治らずこのままでは将来的に不安を抱える事になるので
母の郷里のある広島へ来たわけです。
母35歳くらいの頃でした父は39歳、父が夏を越すのは難しいだろうと
言う流れから広島に来たのですが結局先に逝ってしまったのは母でした。
母53歳と言う若さで亡くなり父は72歳になったばかりの頃亡くなりました。
運命とはわからないものです。
父は広島に来ても吐血などで倒れたりもしましたが72歳まで生きたのですね
母は脳卒中で倒れ3日後に亡くなりました。
明るく元気な性格で運動神経も良く町内運動会ではいつもリレーに参加し
その運動能力も大したものでしたがあっけなく亡くなりました。
父とは食堂を営んでいましたが父の身体が弱い事から店もよく休んだり
していたものです。
父の身体の状態は僕の精神的なものにも連動しいつも今度はダメかも知れない
そんな記憶だけが残っています。
竹田市玉来、かなり山奥で当時家の前を自動車が走るのは日に数台くらい
静かな静かな片田舎でした。
広島に来るとき大分の町の道路を泣いて渡った事を思い出します。
引っ越す事が悲しいのではなく車の量の多さに圧倒され渡るのが恐くて
泣いたのです。田舎っ子でしたねえ。
街の人口も少なかったでしょうね
大分県○○様の手紙が届いていたくらいです。
何市何町番地無しのただ大分県〇〇様ですよそれがちゃんと届くのです。
広島県○○様ではとどかないですよねえ。
素朴な田舎育ちの僕は街は大の苦手
今でも出かける事はありません
結婚して40年過ぎましたが街へ出ると言う目的で妻と出かけたのは
たったの一度しかありません。
街は僕にとっての居場所ではないですね
子供が生まれてからも街へ出かけるのは妻の仕事で
僕が同行すると言うシチュエーションなどありません。
僕が子供を連れて行くのは山や川、海だけです。
人が流れる場所よりは水が流れる場所の方が好きです。
ビルが乱立する所よりは木々の群れの方が好きです。
自然の方が似合っています。
コロナ等もマスクやワクチンと言う武器で闘うつもりもありません
丸腰で闘わず受け入れるのがいいですね
闘えばどちらかが負けるだけです。
争いは好きではありません、自然に入ってくれば受け入れるだけ
その後は流れに任すだけ死が必要なら死ぬだけ
死が必要なければ生かされるだけです。
何れ訪れる死をわざわざ回避するよりは
今日一日楽しく生きれば良しです
猫さん達に生き方を学んでいればいいだけですね
昨日も明日もありません
今日、今、この時を精一杯生きるだけです。