広島では原爆の悲惨さを語り継ぐ事が大切でもあります。
僕もその悲惨さは痛い程聞かされて育ちました。
しかし悲惨さを語り継いでも無くならないと考えています。
考え方そのものに無理を感じています。
戦後74年語り継がれて、これからも語り継ぐ事でしょう
それは気の遠くなるほどの年月でもあり僕の世代を幾つも越えて
語り継がれる事だと思います。
核は未だ無くなりません。
イジメやパワハラが無くならないのと同様に
無くなるとは思えなくなっています。
大国の傲慢さと戦争の悲惨さを計りにかけると悲惨さが負けてしまうのです。
核を無くそうとするならば、持たせないのではなく、手放す以外に方法は
見当たりません、つまり核放棄ですね。
核を保有する国がそれを勧めない限り説得力はありません。
それは長きに渡って悲惨さを語り継いでいるのに、やはり説得力が
大きく足りないからだと思います。
現実的に核は存在しています。
もっと心が豊かにならない限り核無き世界は永遠のテーマとなりそうです。
強い国が率先して核を放棄しない限り、達成出来ない問題でもあります。
原発も同じく、廃棄へと向かわない限り無くなりません。
世界が駆け引きのために保有しようとする限り
無くならない事は明らかではないでしょうか?
一般論ならば
僕が武器を持ち、弱い者に武器を持つなと言っても
全く説得力がないのと同じです。
そんな身勝手な事を僕が言えば、むしろ拡散させるようなものだからです。
もっと潜在的な心の問題を見直さないといけないですね。
国と言うものは恐ろしいものです。
どんなに悲惨さを叫んでも、耳を塞ぐ事でしょう。
強い者が弱い者を助ける、ただそれだけの事です。
核の傘の下の話ではないですよ。
それは強い者が弱い者を苛めているだけの話です。
武器で守ると言う路線の上に
核無き世界は成り立たない。