今日の猫とボヤキ

新しいブログ名です

生は死への旅立ち

元々僕はネクラです、灰色ばかり感じて生きて来ましたが、それはそれで良いと

思っています。

ずっと灰色だと少し灯りが射すだけでも有難く感じます。

かえっていつも明るい道を歩いた人の方が、少しの闇でうろたえるのではないかとも

思います。

そして人生とは儚いものだとも思っています。

それはそれでいいのではないかと感じています。

 

人は生まれる時、自分がどこの誰と思って生まれて来るわけでもないし

こんな環境に生まれたいとか思って生まれてくるわけでもありませせん

また、死に行く時も同様に、こんな死に方をするんだとか

選ぶわけでもありません。

 

解っている事は生まれた瞬間に死へ向かう事になります。

人生の時間が永いと思っていると、その事を考える機会が無いのですが

短く縮めて見たら生は死のために準備された時間とも言えます。

死の捉え方が未知のもので不安が募ると死は良くないもの

怖いものとして知らず知らず心に刻まれてしまうのですが

本当のところは違うのかも知れません。

150年も経てば今存在する命の何十億人がみんなそこを通るわけです

150年経てば誰一人も居なくなる事を思えば

日常の事柄の一つに過ぎないのかも知れませんね。

もし、死が僕らが思っている事と違っているとしたら

色んな辻褄は合って来ます。

 

怖いものだとか不吉なものとして捉えた場合、霊や先祖の事まで持ち出して

辻褄を無理やり合わせてしまうでしょう。

日々命は失われています、当たり前のようにです。

生まれた瞬間に死への旅が始まる事を考えれば、死は怖い不吉のものでは

無いのでしょう。

 

また運命と言うか、生まれる場所から死ぬまでは

神の観る夢の様に、映画のストーリーと同じように

途中で変わるようにも思えません。

何故ならどんなに変えてしまっても死と言う事象は

変えられないからです。

 

例えば僕が病にかかり放っておいても、治療を施しても

少し遠回りはするかも知れないけれど行きつく先は同じです。

遠回りとも言えないですよね、そのまま放っておいた方が

長く生きられるかも知れません。

火事、事故死、殺人、老衰、全て決まった中にあるのかも知れません。

死に行くための動機がそこにあるはずです。

例え病を克服したとしても死ぬ動機は別なところに潜んでいるだろうし

一喜一憂するだけの些細な事かも知れません。

 

死の観念を少し変えないと、死は悲惨なだけの答えにしか

捉えられなくなりそうですね。

そうではなくて、死ぬための動機に病や事故等が用意されていると

考えた方が心は納得出来ます。

 

何故私がこんな目に

何故罪も無い子供が‥‥

そう言う考え方に陥ると死は悲しいだけのものになりそうです。

罪も私も関係なく訪れるものだと思います。

 

どうあがいても行きつく先が決まっているのなら

病も含め全て受け入れ、生きている間、少しでも楽しい時間を

過ごす事を模索した方が良いと感じます。

死に方も生まれ方も選べないのなら

生きている間だけを精一杯良くしたいものです。