猫さんロードと裏猫日記

猫を通じて生き方を学んだり

僕らはムチが飴に変わっただけの奴隷、それに気付けば

生まれて物心ついた頃から何か違和感を感じていた。

社会に出る頃にはその気持ちはより強くなって行った。

奴隷にはなりたくない、ならないと心に言い聞かせたものだ。

僕は神経が過敏なんだと思っている。

学校時代に部活などで先輩に対しての挨拶の仕方や

幼い頃からの躾の中や他の人とのかかわり方を子供心に見えたものは

その違和感だったようだ。

それが大人になるにつれてハッキリ見えるようになった

高校を出て国鉄に入った、今のJRだね、先輩後輩の在り方や

組織の昔ながらの在り方に、やはり僕らは奴隷なんだなと感じたものだ

半年で国鉄を辞めてからは職場を転々とした。

トラックに乗るようになり朝の町中を走る時、ネクタイ姿のサラリーマンが

ぞろぞろ歩く姿がロボットに見えた。

何故同じようなスタイルで同じようなカバンを持って歩いているのだろう

学生のスタイルもそれと大して変わらない。

つまり着せられる服は奴隷の証なのだと思った。

奴隷と言う言い方はあまり良くないのだけど

それを感じた人は幸せだと思う。

奴隷になり切れないと言う事だからね。

 

みんなにとっての当たり前は僕にとって異常なんだと思う。

知らない内に幼稚園学校と当たり前のように通って当たり前のように

社会に出て当たり前の人生を送る事の違和感

働いた金から決められたものが決められた通りに差し引かれてね

おかしいなと思うのが正常なはずなんだけど

社会に出るまでにその知識を植え付けられてしまうから

理屈で持って正当化出来てしまうんだよね

素直な奴隷になってもらう為にはムチよりは飴の方が無理なく

洗脳出来るって事でもあります。

 

僕は学生時代から部活など入らなかった、同級生が先輩に当たり前のように

へり下った挨拶したり、命令形で動かされるのを自分に当てはめたくなかったからだ

社会全体の殆どの人が飼いならされた奴隷にしか見えて来ない。

まあそれはそれで納得しているわけだからいいんだけどね

僕はそうはなれないだけ。

先輩も持たないし後輩も持たない

上司も持たないし部下も持たない

生きると言う事は自分を生かす事であって

自分を殺す事では無い。

 

心に思った事はそのまま表現する。

喉元を通る時に変換した言葉にはしない。

世の中がそれは言ってはならないと言う言葉は

卑怯な論法だと感じている。

言わなければいけない事の置き換えに過ぎない。

 

奴隷制度は永遠に続くのだから、それをよく理解した上で

自分を生かすようにするのがベスト。

 

これやっとけと言われたらお前がやれと言えばいい。

これお願いしますだけで良い。

誰が偉いのかは僕自身の感性に委ねるだけだ。