猫さんロードと裏猫日記

猫を通じて生き方を学んだり

運命論

今日は朝から気が進まなくて猫歩きはしませんでした。

正月早々に色々なニュースもあり運命について考えさされる日々でもあります。

僕の中の概念では映画や音楽のように完成された軌跡の一部を「今」と言う時間に

見ているように思っています。

 

運命は変えられると思うのが普通なのかも知れないですね。

その時その時の選択で明日は未来は変わるものだと言う認識をしているか

していないかだけの違いではあります。

 

完成されていると変える事が出来なくて

完成されていなければ今の選択次第で変わるのだ

どちらでも良いのだけれど

僕のように完成されたものだと捉えると

選択そのものも運命として刻まれているので

変えたつもり変えるつもりでも完成された図は変わらないって事です。

 

レコードで言うなら完成された楽曲にレコード針を落としたところが「今」で

過去も未来もその完成された楽曲はそのままって事でもあります。

 

そう決めつけたように言うときっと反論しかないと思います。

決まって居たら何の為に生きているのかわからない‥‥とね。

決まっていたとしてもどんな運命かわからないのだから

そんな事はどうでもいいはずです。

じゃあ運命が決まって居なかったら何の為に生きるのですか?

重要なのは「今」だけです。

未来の為に「今」を努力したところで決まった運命の途上です。

実るか実らないかは運命次第と言う流れです。

 

交通安全祈願も受験合格祈願も必勝祈願もそこには何の意味も持ちません。

そんな事で運命が決まるのなら生きる意味さえ変わって来ますね。

決まっていても決まって居なくても生き方そのものは簡単に

変わるものでは無いですね。

 

そんな事で僕は努力すれば諦めなければ夢は叶うなんて

妄想は一切持つ事はありません。

成功者だけが語る言葉も大切ですが

敗北者の語る言葉も同様に大切ですね。

成功者も敗北者も同じ努力をしているのだから優劣ではないですね。

 

運命とは安全祈願など含めて縁起を担いでも叶いません。

安全祈願などのお札付けたまま死に行く人が普通なので

「今」を大切に一生懸命前を向いて歩きましょう。

それで得た結果は運命そのものなので悔んだり喜び過ぎたりないようにしましょうね。

 

僕そのものは九州で生まれ10歳までは大分県に居ました。

父が病弱でなければ広島に住む選択もありませんでした。

大分に居れば今の妻と出会う事もありません。

 

また母の実家が広島でなければ広島へ来る事もなかったでしょう。

遡ると父と母が出会わなければ僕の存在もありません

父や母が生まれる時も同様に過去と繋がれて居なければ

僕の存在もありませんし、人類が存在するのも過去の永い永い

時を経て来た事を考えると天地創造以前の何かが僕らの世界を

造り出したのでしょう。

僕らが遡れるのはビッグバンと言われる現象までですが

ビッグバンそのものが「今」への足掛かりでしょう。

 

それほど遠い過去から完成されたような軌跡を僕らは見て居るのでしょうね。

人が生まれる以前と言う事は人類が居なくなってもまだその先まで

決まって居ると言う事でもありますね。

 

そうですあなたも僕も今日まで生きて来た人生の色々な事も明日の運命を

辿るために必要な事なのです。

今日が無ければ明日も無い。

不謹慎ではありますが明日死ぬためにはこれまでの人生の全てが必要だと

言う事になってしまうし今日生まれる為にも同じ事が言えるのです。

大切なのは運命が決まっていようが決まっていまいが

「今」より先は解らない見えないと言う事がとても大切な事になります。

死が見えたら生きる意味ないしね、成功が見えたら生きる意味ないしね。

解らない事こそが生きる上にとても大切なのです。

 

 

今日は歩いて居ないので
家の周りの猫達を