葬儀や法事ではお坊さんが色々と話をされます。
僕は無信仰なのであまり心を動かされる事はなく適度に良い話をされるな程度ですが
それ以前に坊さんそのものにそれだけの徳のようなものはあるのだろうか?
ただの職業では無いのかと思ってしまいます。
また高貴な僧だとしても型にハマりきっただけのエリート程度にしか思えないのです。
まあそのへんに転がっているお坊さんは
一般社会なら精々ブルーカラー組に位置するのかも知れませんね。
説教などもあったりしますが、成程とは思うものの、心の中では、あんたはそれを実践出来ているのか?と思ったりです。
因果応報と言う言葉もそんな中で耳にしたり
ラジオやテレビの中でも時々聞きます。
この度、暗殺と言う痛ましい事件がありましたが、この展開を名だたるお坊さんに納得出来るような話をして欲しいな思いました。
宗教家の立場からこの事件を因果応報になぞらえて説いて欲しいものです。
僕は無信仰なので命の重さはみな同じくらいの感覚だし、運命論者なので因果応報には関係無く決まった定めに身を置いてしまったと言うものですが、仏教で言う因果応報の結果だとしたらどう説くのでしょう?
それを極めた僧が居れば国民に説いて欲しいものです。
なるほどそれなら辻褄が合う
そう云う事なのかってね。
運命論からだと自分の定めの死に向かい
着実にそこへ向かって歩み続けそれから逃れることは出来ないのですけどね。
それに因果応報を貼り付ける、辻褄は合わせる事は出来なくもありませんが無理が有ります。
運命論は宗教とは違うので善行、悪行によって何かが戻ってくると言う観念は無いので
因果応報と言う流れとは無縁で
生ある者は死す。
生まれた瞬間から与えられた死に向かって
歩み続けるだけなので善行したから
良い死に方だとか悪行の限りを尽くしたから
悲惨な死に方なんで区分けはありません。
因果応報と言う言葉は運命論にはないですね。
因果応報の一言で片付けられたら
戦争も虐殺も当然の結果しかならないものね。
運命論は死に向かうだけなので
そこに至るまで一生懸命良い人生だと思えるように終点に向かうだけです、
運命論
これは個人の感想でありますので
因果応報で亡くなられた方には
無用論となります。