よく僕が議題にあげる話ですね。
運命は決まっていると言うとは運命は変えられると反論したなると思います。
決まっていたら何のために生きているんだと感じるでしょうね。
決まっていていいじゃない。
決まっているからと言ってそれは自覚できるものじゃないし、わからないまま生きているんだから決まった事より今をどう生きて行くかだけを考えればいいんだから変に努力して未来を夢見るよりは一時、一秒を大切に楽しく生きていたいものです。
この運命論は不幸があった時は非常に語りにくい話題です。
冒涜のように感じ感情を逆なでするような発言となるからです。
そのつもりは無くてもリアルな世界では
そう捉えられるでしょうね。
よく僕が生まれ来る時に死の切符を既に持って生まれてくるのだと言うのは僕自身が感じる世界なのです。
目には見えない死の切符
死に方でもあります。
つまりその目に見えない運命の切符に書かれた方向へ無意識に行ってしまうのです。
無意識の世界だから感知は出来ませんが
それを語るとなると冒涜と捉えられると
思います。
まあ死に方はそう捉えられても無理はないので生まれくる方の方が語りやすく受け入れやすいでしょうね。
さてあなたは何故生まれたのでしょう?
いつの時代に誰の子として生まれてきたのでしょう?
あなたがそう決めて今の両親から生まれたのですか?
そうでなければ両親が決めてあなたを生んだのですか?
違いますよね、運命とは決まったものだから
あなたや両親が決めてと言うのではなく
決まった通りの線上をそれぞれがあるいているのですね。
遡ればビッグバンまで戻らなきゃならないし
突然あなたが降って湧いたのではないよね。
旧約聖書に誰々の子は誰のように続いているわけだからその運命の途中を消すことさえ出来ません。
そう云う線上の最先端に僕らは位置しているだけです。
誰の子として生まれてきたかも振り返れば
反論はしようがないですよね。
死に方もそれと同じです。
そこへ無意識にあなたも僕もあるき続けているってことでしょうね。
死ぬのに努力は皆無です。
決まられた場所で決められた死に方を
するだけです。
誰が悪いとかの前に自らが
そう向っているのだと思います。
運命論、運命はとはそんなものです。
努力が実るだとか夢に向ってそれを達成するなどはありませんので夢の無い人、努力したくない人は幸せかも知れませんね。
僕の事かもね
楽したい
夢いらない努力したくない
毎日楽しい時間があればいい。
これも運命です。