猫さんロードと裏猫日記

猫を通じて生き方を学んだり

世の中は矛盾に満ちている

そんな世の中から抜ける事は幸せではないでしょうか?

生きて抜けるのも良し、死んで抜けるのも良し、死んで抜けると言っても自殺ではないですよ、出来るだけ自然の流れに身を任せて寿命を全うすれば良しです。

それが中々出来ないさせないのが世の中なんですけどね。

命は大切にと言いながら無駄に長生き(延命)させてみたり、有事があれば一番元気ある若者の命を粗末にしたりですね。

実際のところ命の重さは平等なんですけどね、時と場合によっては軽くしたり重くしたりです。

脳に誰かに刻まれたインパクトの強い念が

残されてしまうんでしょうね。

それは大抵常識と言った頼りない観念でしかないのでしょう。

持って生まれた本能とはかけ離れているでしょうね。

宗教違えば答えも違うなんてのも本能を押し殺された答えだと思います。

僕らは既に造られ過ぎてしまい

自我も含めて何かに閉じこめられていて

生きることさえ無駄に生きてしまってるかも知れないですね。

常識を抜けて本能の部分で物事を見直すのも良いかも知れません。

罰当たりな例えではありますが、僕が死んだとしてその遺骨を神聖なものだとか、仏事で捉えず自然界の生物の命として見ましょう。

僕の遺骨です、皆さんがたのではなくね。

自然界のその遺骨はただのゴミに過ぎません。あらゆる生物の死に様とその後はバクテリアや風化と共に大地に返るだけですけどね、いかにも人間はそうではないと神事、仏事の、一環として流されてしまいますが、

ゴミとしての価値はそれはそれで大地を潤すための材料にはなります。

僕の遺骨はゴミではありますが法律的にゴミで捨てられないことがまた悲しみを深くしてしまいますね。

家の中のゴミは百均のポリケースで十分ですが、僕の遺骨を確かな物として後世にのこすためには立派なゴミ箱(お墓)がいるのですか?

いいえ要らないです。

遺骨そのものゴミなので拾わなければ市が処分するだけです。

家族にはゴミ拾いするなとは言ってありますが家族の中に馬鹿が居ればしきたり道理に事を運ぶかもねえ、僕の遺骨はゴミとして軽く見ることを薦めます。

そんなものなくてもそんなものを入れるゴミ箱よりもっと大切なものが残っていると思います。

他人の遺骨で例えると不謹慎と言われると思うので僕の遺骨で例えました。

ゴミもゴミ入れも不要です。

そんな中に僕は居ません。