僕はいつも運命は決まっているのだとブログでは書いています
それに根拠らしきものはありません、必要ないからです。
人は生まれ人は死ぬ。当たり前の事を普通に考えているだけです
そんな馬鹿なと思うなら今日までの人生を逆回しすればいいだけです
寸分の狂いもなく再現されることでしょう。
あの時こうしていればなんてストーリーは存在しません。
過去は見えはするが変えられません、それと同様に未来は見えないだけで
見えない部分は今そのもの再現をしているようなものです
それは終わりに向かってのストーリーです。
壮大な終末へ向かっての決められたストーリー。
何故終末と言う言葉なのかは生があり死が訪れると言う流れです。
終わりが無い世界ならば万物は永遠に存在すると言う事になります。
僕らは終末に向かって時間の移動をしているわけですね。
科学的根拠など必要ありません。
生まれて来た過程を冷静に見ればそうなって来ます。
人間時間の何年の何時何分に生まれたかが理解出来ればいいだけです
運命論とはそんな物差しです。
偶然や奇蹟ではなく全て必然だと言う事ですね。
全て時の流れに刻まれている道標によって進んでいると言った方がいいのかな?
こんな事を考える暇はあまり無いと思います。
人間社会の時間軸の中にはこんなものは必要がないので
普段は考えないと思います。
生まれ方が決まっているからあなたとしてこの現代に生まれているだけです
決まってなきゃこの時代に生まれようとしても生まれ出ることさえ出来ません。
原始時代でもいいしもっと未来でもいいのに現在にあなたが居るって事です。
また今の時間軸の中でないと僕のこの運命論も見る事はないですよね。
生=死ならば死ぬ時も決まっていると考えるのが自然です。
新型コロナで騒いでいるけれど既に決まっている死を回避する事は
出来ないでしょう、新型コロナで死のうとして死ねる事も出来ません。
何故ならその切符を持った人しか新型コロナでは死なないって事です。
わからないからうろたえているのが普通とは思います。
僕のこの手の話は切符と言う形で言い表していますが
東京行きの新幹線で東京の切符を持っていれば東京に行くようなものです。
生まれ出る時、僕は日本と言う場所で誰と誰の子で唱和何年の何月何日の何分に
生まれる切符と、いつどんな形で死ぬと言う切符をちゃんと貰っているわけです
生まれた時と同様で自覚はありませんけどね。
寸分の狂いもなくその道標の上を移動とている事になります。
コロナ騒動を漫才のように例えたり馬鹿騒ぎと表現するのも
変えられない運命を右往左往している様を表現しているのかも知れません。
僕の死に方として相応しいものではありますが、そう思うようにはいかないですよね
決まった道標がそこに辿り着くようになって居ない限り無理なのです。
余談にはなりますが、僕に相応しいと言うのは
この病は家族にも会えないまま焼却されると言う、普通で考えると
死に目にも会えない、見舞いにも行けないと言う悲しさです。
出来れば家族に死に目は見せたくないのです。
命は救いたくても最終的には救う事が出来ない様になっています
それは日々沢山の人が色々な形でこの世を去る事からも証明されているようなものです
その場だけの命の救いは出来たように見えても
切符の行先しかないんですね。
運命は変えられないもの変わらないものと言うと
みんなそれは違うと言うでしょうね
努力や頑張りで明日が頑張る事が出来ると思う事でしょう。
それも含め道標通りに努力し頑張っているです。
時には熱から覚めて運命を考えるのもいいですよ。
生まれてから死ぬまでを冷静に考えると
新型コロナを必要以上に意識し、人を悪者にしたり
次に来る鳥インフルエンザ、もっと驚異的なウイルス
巨大隕石の衝突、巨大地震、全部時間軸の中を移動しています
決まった時に必然的に訪れ、決まった人が決まった時間軸を
道標通りに歩きます。
それは恐怖でも何でもありません。
恐いのは人の心の在り方だけです。