昨日施設の夕食で一人のお年寄りが体調崩されました。
そのお年寄りは食堂に入りいつものように「こんにちは」と挨拶してぼくは
いつものように「いらっしゃーい」と応え、お年寄りが席に着くと食札をお盆に
用意します、来た順番に運ぶためと食札には必要事項が記されています。
スプーンの大小や禁食類などです。
席に座り五分も経たない内に意識が無く応答もありませんでした。
座ったまま左頬を撫ぜながら目は閉じ呼び掛けても反応なし
幸いまだ看護士が居る時間帯だったのですぐ呼びバイタル測定
最終的には救急車と言うことです。
この施設の中でも一番頭もしっかりしたお年寄りです。
いつも食事で僕が居ると「今日は泊まり?」と必ず聞きます。
昨日も全くいつもと変わりないのに数分後に上のような状態です。
いつも僕は施設の老人には話している事
運命は決められた通りに動いている、生まれた時には死の切符を持って
いるのだらそれに逆らう事は出来ないし年の順ってわけにもいかないよ
死にたくないと思っても死にたいと思っても思った通りにはならない
新型コロナで死にたいと思っても手にした切符にそれが書かれてなきゃ
感染しても死なないし感染することさえままならない。
僕は運命論者なので明日の事はわからないけれど死ぬと言う現象は
外す事は出来ないので楽しい時間を過ごそうよ。
そんな会話を良くします。
そのお年寄りは凄くしっかりした人です。
でも手のかかる人などには冷たいところがありました。
あんなになっても此処に居るのはどうかと思うなんてよく言っていました。
僕は何れみんなその日が来る○○さんがそうなった時は
わしが介護するけえね‥‥。
昨日の状態を見た時、その介護の手も届かないところに行く予感がしました。
僕の母の時のような状態と似ていたからです。
ただ僕が思うのは、救急車で運ばれると言う時には第二の人生が
その後に来るような気がしています。
僕の母の様に第一の人生がそれと共に終わればその方がいいなと感じています。
僕の概念では猫さん同様の結末が一番道理に叶うのです
それが可能かどうかは別としてね。
自力回復出来ない場合、自力で食を取れなくなったら淘汰の流れに
乗るのが自然の流れだと思います。
老人の施設に居ると何とかしてあげたくても出来る事は限られてしまいます。
医療従事者も責任観念から出来るだけの事をするのだと思いますが
目が覚めた時は虚しい気持ちが流れ出来る事はやったと言い聞かせ
次へ向かうのだと思います。
出来るだけの事なんて無いのです。
生きると言うのは自分の生命力以外に頼るものはありません。
医療や介護はその生命力に僅かに手を差し伸べるだけですね。
この施設で数名の方が亡くなっていますがその都度ショックは感じます。
昨日のお年寄りは高齢なので回復は難しいでしょう。
出来れば自然淘汰に身を任せてあげたいですね。
生命力あればそれで良し、無ければそれで良しです。
延命は意味が殆どないでしょう。
山の猫さんはそうして一生を終えるのだから
人も又それに準じた生き方が幸せだと思います。
一命を取り止めるのは個体の生命力のみです。