今日は夕方五時からの夜勤で既にプレッシャー感じています。
ストレスこそ皆無に近い仕事ですが就業時間だけが精神的に圧迫感を感じています。
日中疲れすぎないようにと言う気持ちと夏場が苦手、また元々夜は苦手なので
夜勤そのものがリズムに合ってないんですね。
出勤すると惰性で朝が来るのを待つような感じです。
これまで色々なお年寄りを見て来て人生の最後は僕が考えているようなストーリーが
一番いいように思います。
自然死により近づける事が老後の幸せのような気がしています。
医療はそれを阻害してしまい病死の色が濃くなりそうです。
誰しも何れは死に行きます。それは病とか闘病と言う見方をしなければ
与えられた死の形だと思っています。
しかしながらそれを自分以外に実行すると「見殺し」と言う言葉で
攻撃されるかも知れないですね。
これは自分で実行するしか今の世の流れでは認められないでしょうね。
年を経れば何れ他臓器不全となりいくら健康でもそれを乗り越える事は
出来ません。
僕の居る施設や老人ホーム等では介護と言う分野だけで成り立つ職業も多々あります。
また医療保険等も多くのお年寄りで成り立っています。
それらがが無くなる事が一番理想なのかも知れないですね。
悪い言い方だと「見殺し」ですが、良い受け取り方だと
太古の昔から情で見守りながら看取ると言えます。
沢山の管や医療機器で看取られる方が僕には残酷に見えてしまいます。
情で出来る事は食事介護と下の世話くらいですが
食事介護がそのものが出来なくなった時は下の世話も終わります。
食べる事が出来なくなれば自然死はすぐ目の前にあります。
ここまでは医療に頼らず出来る情ですね。
その役目が終わると生命は終わると言う事です。
見殺し見捨てるのとは全く違うのですが
何もしないと自分に責任感じたり、他人に責任なすりつけたり
良い事は何一つありません。
死に行く人を見送るのは医療ではなく情で良いと思っています。
どうしても一秒でも死の時期遅らせたい、生きたい、生かせたいと望む人には
医療は神のようなものです。
選ぶのは自分自身ですね。
僕はその時期を早めたり遅らせたりはしたくないだけです。
何故ならどうあがいても最後は決まってるからです。
前置きがながくなりました。
僕が猫を写すと言うより猫が僕を観察しています。
おかあさんは居ました
クロさんは大人しいのか遠慮がちでした。
そして子猫エリア
時々この辺りをうろついているじゅんちゃんです
今日は丁度行った時、どくちゃんがうりボウを追いかけて来たところでした
でもうりぼうはまだどくちゃんに猫パンチ出したりしていました。
どくちゃんも猫パンチ受けたりうりぼうが怒ったりわめくけど
あまり相手にはしないようです、その内本気でどくちゃん怒るかもしれないですね。
何故だかいまのところうりぼうには甘いどくちゃんです。
お堂方面へ歩いていると
お堂に居る猫さん達を横目に歩いていたら
石段にキャットフード置いて行きましたが、ビリギャルが抜け出して
墓所の中腹まで来てしまいました。
ビリギャルはいつもこんな感じで単独行動が多い猫さんです。
あまりみんなと一緒に居るのは好きでないのかもね。
往路ではチビと会えなかったので帰路に再度寄りました
今度は居ました。
この後すぐ猫好きおねえさんと出会いました、少し話をしておねえさんは
チビのところへ行ったのでまだチビは食べていたでしょう。
さて少し仮眠出来ればしておこう