猫さんロードと裏猫日記

猫を通じて生き方を学んだり

神社 僕にとっては有っても無くてもいいもの

先日愛宕神社の記事を書きましたが信仰心の無い僕にとっては

神社に限らず物の世界はそんなに大事なものとは思っていません

大事にすればするほど心が乱れたり争いの元凶にもなり得るから

物は物として自然の一部と捉えた方が平常心を保てるのではないかと思います。

他の生物と違い人間は何故か色々な物に対しての執着心が強すぎる気がします。

価値観によって勝手に天然記念物に指定したり日本遺産、世界遺産

国宝などと価値を付けてしまい本来の物が違う物へと変わりゆく

その執着心ほど恐いのは無いですね。

動植物も増えれば間引くし減れば保護なんていつも勝手に決めつけ

本来の存在を無視した価値観へとなびいていきますね。

僕には信仰心こそ持ち合わせていないがその真髄は解っているつもりです。

キリストが偽善者と言う言葉を吐くのも僕には伝わりました

釈迦が迷いに迷った生き方も荒行が大切ではないような事を

語ったと聞きましたがそれも理解出来ているつもりです。

人はもっと色々な事に捉われず自然に生きるべき

そう言っているように思います。

執着と煩悩も一つにパッケージされていて不自由なのが人間なのかも知れないですね。

原爆ドームや記念碑、有名どころにちょっと悪さされだけで大騒ぎする

小さな小さな心は釈迦やキリストが居たら笑っていることでしょう。

物を大切にするあまり心が乱れてしまうんですね

大切なのは物ではなく心の在り方なのだという事です。

 

2011年3月に愛宕神社に出会った事から僕の神社周りは2017年まで続いて

しまいました。

我が町にある文献やブログ記事からしらみつぶしに探しましたが

一つだけわからない社が残ったため2017年まで神社探しは続きました

最後の一つはそこに住んでいる人さえもが知らなかったと言う社でした。

信仰心の全く無い僕が何だかんだと34社(祠など含めて)も見つけたんですね

信仰心のある方はお寺か教会くらいしか興味持たないかもね

そのお寺にまつわる物、教会にまつわる物しか見えて来ないでしょう。

無信仰だと何の壁もないから自由そのものです。

沢山社を見つけましたが有っても無くても構わないのです

あれば目で捉えますが無くなれば心で捉えているので

それが焼失しようが建て直そうが形が変わろうが

心には何の動揺もありません。

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狭い町にこんなに沢山あるのですね

最後の大年社 あまりにも古くお年寄りが生まれた時には既に形は無く

聞いたことはあるが見たことは無いと言う社でした

その跡地に住む人も知らないと言っていました。

この町のこう言った社など保存や調べたりしている発喜会と言う存在がありますが

恐らくその人達は知っていると思います。

色々捜し歩いている時に複数の方から「発喜会の方ですか?」なんて言われました

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文献より

愛宕神社は動けないものだから僕の足を使って遊び歩いたんだな

信仰の壁が無い方が使い勝手がよかったんだろう(笑)

この神社周りの前に愛宕神社には標石と言うものがありました

神社周りはそこから始まったのです。