一生と言うのは1秒であれ100年であれ長さの例えではなく
短くも長くも一生なのだ。
また人生は映画のフィルムのように一度映し出されたものは
変える事は出来ない。
それは事故の再現フィルムを巻き戻しても起きた事は変えられないものである。
それと同じようにフィルムの先もまた変わらないのである。
あと一分早ければ後一分遅ければと言うのは過去を振り返った時言えるものであり
振り返った所で過去は何一つ変わらない様に、未来も変わらないのだ。
ただ解るのは未来は解らないと言う答えになる。
解らないのにも関わらずそこに刻まれたフィルムは存在すると言う事だ。
それはまだ見ぬ映画のフィルムのようなものだ。
例えストーリーはあっても回して見ないと解らないと言うのと似ている。
ストーリーが決まっていても面白いのは結末が解らないからであり
人生もまたそれと似ている。
一つだけ心に留めて欲しいのはもっと死を身近に置く事だ。
誰しも明日、若しくは今死ぬなんて事を考えもしないだろうが
死はすぐそばにある事を意識し、今を最大限良いものにしたいものだ。
死は遠くにあるものではなくすぐそばにあるのだ。
こうして記事を書いている間も絶え間なく人は死んでいる事を
忘れてはならない。
災害などでも自分だけは大丈夫なんてあり得ない
自分だからこそあり得るのだ。
明日には命があるかどうかも定かでないのだから
良い生き方を息のある内に考えながら過ごしたいものだ。
追記
僕の運命論は過去も未来も決まっていると言うところから始まっている
そんな馬鹿ななんて思わないで下さいね
決まっていても未来は見えない解らないから夢があるわけで
もし未来が見える人がいたらとんでもないよねえ
未来が見えてしまったら、それは過去って事になるもんね
過去は過ぎた事だから見える訳で
未来が見えたら(予言など含めて)
解ってしまったらそれは過去と同じ位置づけになってしまうだけ
明日飛行機が墜落して死ぬなんて見えたら
それは過ぎた過去を見るのと同様の現象になってしまう。
わからない未来の素晴らしさはそこにあるのだ。