猫さんロードと裏猫日記

猫を通じて生き方を学んだり

運命、天命、寿命

痛ましい事故も災害も運命、天命、寿命によって避ける事は出来そうで

出来ないのかも知れません。

後5分遅ければ、後5分早ければの狭間に決められた運命が

あるのかも知れません。

早くも遅くも出来ない決まったもの‥‥

病も同様で、もう少し早ければと思っても決まった運命の中に

あると考えた方が説得力がありそうです。

でも悲しみやそれに伴う苦しみはどうすればいいのか

僕らはどこかで何か大切なものを失っているのか

考え方に間違えた観念が心にあるのかも知れません。

それは痛みや苦しみの捉え方が生きている自分に宛がうからなのでしょう。

また死そのものの捉え方が間違っているのかも知れません。

事故でなくても災害でなくても人は何れ死にゆく

生を受けた結末は必ず死へと向かいます。

しかし生は喜びをもたらします。

それと同様なものが死なのかも知れません。

もしかしたら死は思っているものと全く違い

喜ばしいものかも知れませんね。

残された者の苦しみや悲しみと裏腹に

本当は喜ばしいものかも知れません。

どこかでそれが悲しいものだったり辛いものとなったのでしょう。

死に行く形の一つとして事故だったり病だったりするだけで

その死に方を選べないだけの結末かも知れないですね。

 

生まれてから何一つ不自由なく老衰まで向かう事が幸せだとも言えません。

またみんながそう言う死に方出来るはずもありません。

死が永遠の安堵だとしたらどうでしょう?

また悲しみに暮れても、死が永遠の安堵だとしたら

喜ばしいものですね。

悲惨さばかりに気持ちが行ってしまうと

死は残酷な神様の仕打だけに終わってしまいます。

 

考え方の一つに死は永遠の安堵

極楽だとすれば心の支えにもなると思います。

またそう思えるようにならないと

亡くなった人は永遠に浮かばれないような位置づけになってしまい

死そのものが恐怖だけの姿になってしまうでしょう。

 

僕自身は命尽きるまで精いっぱい生きて

楽しい時間を過ごす事が死へ向かう自分への思いやりです。

一秒先はわからないし、どんな死に方をするかもわかりません。

わかるのは何れ死ぬと言う事だけです。

 

運命が簡単に変わるものなら適当に生きていればいいけれど

多分変わらない気がしています。

誰かが決めた死に方を何れ迎えるだけです。

その日まで短くとも長くとも精一杯生きるだけです。

誰かが決めた最後は素直に受け入れる事にします。

その後の永遠の安堵を既に感じているからね。

辛いのは生きている僕らだけの感情であり

安堵の世界へ旅立つ人は何の苦しみも辛さも無い事も

感じています。

死に方は選べません。

死に方は生と死の狭間にあるものなので

手を差し伸べる事も出来ませんね。